ゴローの「思い込み 」

目には見えない「心と体のつながり」を視覚化して、気づいて、あなたが「思い込み」から自由になるお手伝いをしています。「思い込み」という名の呪縛について私なりの「思い込み」を書き綴ってみるブログです。

やっとホントに許せるかな…?

一昨日、車を運転してたらふと自分の中でつぶやく声が聞こえてきました。

 

「・・・納得できんかったから、動けんようになったんよな~・・・」

 

いきなり浮かんできたセリフなんですが、「あぁ~… そうか…」って、すぐに繋がりました。

 

先日の出来事があってから色々と思い出す事、感じる事、繋がる事が起きています。

 

 

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私はセラピストという今の仕事の前に、長い事 競走馬を育成する牧場で働いており、競馬界での晩年?には小さい組織ながらも、この業界で働き始めた頃からの夢でもあった牧場長として腕をふるう機会を与えてもらっていました。

 

場長として勤めたこの牧場、実は立ち上げから密接に関わっていまして、

数年前に閉鎖して使われていなかった お化け屋敷状態 のようなボロヤ?を改装して、オーナーとあれやこれやとアイデアを出し合い、柵を打ち、ペンキを塗り、蜘蛛の巣を振り払い、悪戦苦闘しながらスタートした牧場だったんです。

 

でも今思い出すと、あの頃が一番楽しかったと思えます!

 

「体癖」をご存知の方なら分かると思うんですが、9種体癖である私からすれば我が子のように… いや自分自身と同等以上に愛着がこもった牧場であり職場でありました。

 

だから… 傍からどう見えたかは存じませんが、私は並々ならぬ情熱をもって場長として数少ないスタッフと共に意気込んでいた訳です。

 

基本的に馬主さんや調教師さんに大切な馬を預けてもらう事で事業が成り立つのですが、記念すべき預託馬1号くんが牧場にやってきた時の感動は今でもよく覚えています。

 

オーナーや私、そして少ないスタッフの希望に満ちた思いが届いたかのように、

開業半年後には牧場の馬房(馬小屋)が預託馬でいっぱいになるまでになりました。

 

ところが… こちらの予想や計画を上回る状況に大喜び出来たのはつかの間でした。スタッフが足りずに忙しすぎて自分が理想とするような仕事が全く出来ない… というストレスに捕まり始めたんです… 私が…。

 

競馬界も人材難ですぐにどうこう出来る問題ではなく、何とか出来る範囲でやりくりしていましたが私のストレスは募る一方です。

 

これまた「体癖」をご存知な方なら分かる話なんですが…

9種体癖って自分が愛情や情熱を注ぐことに対しては半端ない傾向があり、完璧主義者な訳です。恐らく当時の私は9種体癖エンジン全開で突き進んでいたんだと思います。

 

「私は、こんな(レベルの)仕事がしたくてこの牧場を始めた訳じゃないんです!」

 

みたいな感じでオーナーに食って掛かる始末で…(ちなみにオーナーとは年も近く以前から知ってた事もあり、こういう感じでモノを言い合える関係ではありました)

 

見方を変えれば大変に喜ばしい状況でもありましたが、9種体癖エンジン全開状態の当時の私にはとてもそうは思えずに

 

「こんな仕事しか出来ないんだったら… 馬なんか入ってこない方がましだ!」

 

って本気で思ってました。本気で… 毎日… そう思ってイライラしながら働いていたんです。すると… 願いが届いてしまったんですね…(なんせ本気でしたから…(;^_^A)

 

開業1年が過ぎ、新卒のスタッフやパートさん達でようやく理想とする仕事を進めていけそうな体制が整い始めるのと反比例して、どんどん預託馬が少なくなっていきました…。

 

季節的な変動が確かにある業界でもあるので、一時的なものかな?… と様子を見ていましたが、一向に状況が変わる気配がなく、じわじわと右肩下がりになっていき…

さすがに焦りだして色々と思いつく手は頑張ってみるのですが、なかなか流れを変えられないんです。

 

そうなると私の思考がギャーギャーと騒ぎだし、原因や犯人を捜し始めるんです。当時は既に不思議なご縁もあり精神世界や心の問題に関心を持ち始めていたので、自分の思いが引き寄せた結果なのか?…という視点はあるにはありました。

 

でもやはり外に求めてしまうんです。

私が原因と犯人にしたのはオーナーでした。

 

オーナーは個人的にはユーモアがあり独特のユルさが好きでもありましたが、開業当初から牧場の方針というか、事業を展開していく上でのコンセプトの部分には個人的に価値観の違いを感じていました。

 

でもそれで1年目は結果が出ていた訳で、私もあまり深刻に考えずにいられたんですが、物事が上手く進まなくなってきたとたんに眠っていた獅子が私の中で暴れ出すんです。

 

最初はそれでも我慢して自分の胸の内に収めようと努力していましたが、状況が改善しない状況が続けば続くほど黙っていられなくなり、色々と意見をぶつけるようになりました。牧場を辞める決心をする前頃に至っては

「あなたのせいでこうなったんじゃないですか!(# ゚Д゚)」

的なことまで面と向かって吐き出す始末で…

 

ちなみに冷静になれば当たり前な事なのですが…

この牧場… 当然ながら、彼(オーナー)の牧場なんです…

銀行に数千万もの融資を受けて、返済などのプレッシャーを誰よりも感じているのは彼(オーナー)なんです…

私を始めとしてスタッフの給料を払っているのは彼(オーナー)であり…

会社としての経営の本質を担い責任を担っているのは彼(オーナー)なんです…

 

こんな当たり前の事は一応分かっているつもりだったんでしょうが、9種体癖エンジン全開状態の当時の私にしてみれば、立ち上げから関わり、壁のペンキの色から細かい備品の購入に至るまで並々ならぬ愛着を注いだこの牧場は「私の牧場」そのものでした。完全に自分と同化していました。

 

幸いオーナーの本業での業績のおかげと、右肩下がりにはなったけれども何故だか最低限のライン以下には落ち切らない神風のおかげで倒産にまでは至りませんでしたが、

牧場の低い売上・業績 イコール 私の業績・評価と感じるのは当然で、毎月毎月ストレスと悩みは増えていく一方でした。

 

若いころは馬に乗って調教をして、馬の世話や牧場の作業をしていればそれで良かっただけですが、場長と言う立場になると当然営業的な仕事が増えるんです。

もともと営業向きの性格ではないのは自覚していましたが、業績も下降していく中、焦りとプレッシャーに負けないように平然を装い、馬を預けてもらうために営業に回る日々でしたが、

 

オーナーのコンセプトに違和感を感じながらも、それを伝える事で顧客を獲得しようとする営業は私にとってはかなりのストレスで、当然ながら気持ちも乗らず、相手に訴える力も持たず、成果もあげられず…

 

どんどん苦手意識に捕まり、営業恐怖症になっていきました。

 

私の事を良く知っている方ならご存知かと思いますが、私は好きなことをしゃべらせたら止まらないタイプの人間です。営業は得意じゃないしセンスもないかもしれませんが、本当に情熱を注ぎたいことへの探求心や努力は惜しまない人間です。今なら分かるんですが自分が本当に良いと思える事については、いくらでもしゃべれるし人に伝えたい情熱はあるんです(それが業績につながるかどうかは分かりませんが)

 

つまり私は9種体癖です! と言ってるようなもんです…(;^_^A

そして「こだわりはじめる」と全く融通が利かなくなり、納得しないと全く動けなくなるのも9種体癖なんです。

 

だから牧場の現状(=自分の評価や価値)をなんとか立て直したいという思いと、最初から違和感を感じていたオーナーのコンセプトへの不満やこだわりが摩擦を起こしぶつかり合い、自分が二つに裂かれたような状態で苦しんでいました。ブレーキを踏みながらアクセルを踏み続けていたようなものでした。

 

最終的に牧場を辞める決断をしたんですが、

これ以上牧場の業績が下がる事に耐えられませんでした。私そのものだと感じていた牧場がこのままダメになることは、自分自身がダメになる事そのものでした。8種体癖の私がこれ以上負け続けるのに耐えられなかったのかもしれません。

 

そして自分のこだわりに執着してしまい、オーナーと意見がぶつかり始めた私がこれ以上成果の上げられない場長として現場を仕切るのは良くないと判断しました。本当は私の力で立て直したかったですが残念ながら私では無理だと感じたんです。誰よりも愛着を持っている牧場ではありましたが、それを自分の力で助けられない事への絶望感で我を忘れてしまう状態でした。

 

こんな状態の私なのに、オーナーは引き留めてくれました。最後には不平不満をぶちまけてしまう状態なのに「場長が辛いんだったら、場長は降りてもいいから残ってくれ」とまで言ってくれましたが、それこそ当時の私には無理な相談でした。

 

本当はそんな状況で一番しんどいのはオーナー自身であることは今なら十分理解できるのですが、当時の私にはそんな余裕は残っていませんでした。

 

でも心の奥底では分かっていたんです。だけど愛着を持ちすぎた自分の分身とも言える牧場の役に立てない自分を許せない9種体癖と、これ以上負け続けられない(耐えられない)8種体癖に無意識に捕まってしまい、オーナーや状況の責任にして逃げる事しか出来ませんでした。

 

逃げたって、誰よりもそれを許せない自分がいるのは分かっていたはずなのに…

 

だからこそ…辞めた後も地獄でした。私が自分自身に対する誰よりも厳しい裁判官になってしまい、誰よりも自分を許さずに責め続けました。自分が嫌で嫌で仕方がありませんでした。

 

でも当時の私にはこういう選択や行動しか出来ませんでした。別に体癖のせいにしたい訳ではありませんが…、体癖を知れば知るほど…、今現在の私のもとに訪れるクライアントさんに起こっている苦しみがいかに体癖と関係しているかを知れば知るほど…

 

当時の私は自分と言うものを全く分かっておらず、無自覚にロボットのように反応しては自らを苦しめていた事に気づきます。それぐらいこの先天的に持っているプログラム(体癖)の力は強力なんです。

そして人は、無自覚にやってしまっている事で苦しむんだと思います(自分のせいだと自分を責めて…)。

 

だから冒頭に書いた

「・・・納得できんかったから、動けんようになったんよな~・・・」

というつぶやき声が頭の中に聞こえた時に全てが繋がりました。

 

私が当時オーナーとの間に感じていた価値観の違いは、9種体癖のこだわりによって増幅され逆らえないぐらい巨大になってしまっていた事に気づきました。利害損得や生活の保障を犠牲にしても構わないと思えたぐらいこだわる時や事があるのが「私」という存在が持っている特性だと痛感しました。

 

誰よりも愛着を注いだものに誰よりも貢献したいのに…、誰よりも自分の価値観にこだわる事でそれさえも壊してしまう… そしてそんな自分が許せず納得が出来ず誰よりも厳しくジャッジしてしまう…

 

これでは営業だろうが何だろうが思うように動けなくなり、人生の先が見えなくなるのも当然です。

 

でも運転中に聞こえた声に、私は力が抜けていく感覚を覚えました。

それが良いとか悪いとかを抜きにして、当時の私は自覚が全くなくそれをやってしまっていた訳です。それは既に起きた事であり責めても仕方がないんだ!とようやく思えた気がしました。

 

自分がやっていた訳ではなかったんだ… と思えたんです。体癖に抗えず、それによって生まれた想念で自分を責め続けていたんだ… と気づけたんです(体癖を理解していないと分かりにくい表現かもしれませんが)

 

そして… もう自分を許してあげよう… と思えました。

 

最近では牧場時代の事を思い出す事もなく、長い事そんな責めてる自覚は持っていないつもりでしたが、水面下ではずっと続いていたのかもしれません。

 

もう許してあげよう… そう思うと力が抜けていきました。

 

私はこれまでもベストの選択をしたんだ…思ってはいましたが、ホントの意味でそう思えた気がします。

競馬界に別れを告げたおかげで今、一生をかけてでも探求していきたい事を仕事にできています。苦しかったですけど今、競馬界に居た時よりも出会って良かったと思える思想や素晴らしい人たちに出会えました。

 

亡くなった母には最後まで心配をかけっぱなしでしたし、実家で一人でいる父にもいつも助けてもらっていますが、おかげで自分は凄く愛されていて良くしてもらっている事が分かりました。

 

妻のご両親にも多大なご心配をかけていますが、いつも凄く気を使っていただいてる事に感謝の言葉もありません。

 

子供たちが大きくなって話が分かるようになったら、自分が学んだ事を伝えたいとも思っています(興味があればですけどね…)

 

そして牧場を辞めた事で一番負担をかけたのは他ならぬ妻ですが…、本当に苦労はさせていますがそのかわりに以前よりもいっそう夫婦として分かりあえたと感じています。あのまま競馬界で働き続けていたら今の関係はなかったと確信できます。私がこの10年ぐらいでどれだけ人間が変わったかを一番分かっているのは妻ですし妻のおかげでもありますから。

 

そして… 牧場の方も私の後任のF君が頑張ってくれたようで、辞めてから2回ほど会って話を聞く限りでは今も無事に営業中です(多大な苦労や迷惑はかけてしまいましたが…)

 

もし当時、牧場が順風満帆でいられたら…どうなっていたんでしょう?

その自分は今の自分と比べて好きかどうか…?

その人生は今の人生と比べて好きかどうか…?

 

私の中での答えは言うまでもないくらいはっきりしています!

私は自分にとっても牧場にとっても家族にとっても… ベストな選択ができた人なんです!

起きてしまった現実に対して、こう思えるようになることがどれだけ素晴らしいかが良く分かりました!

 

うすうす感じてはいましたが、辞めるしかなかったのではなく、辞めたかった事にも気づきました。現に今競馬の「け」の字も私の生活にはありませんし全く気にもしていません(これもまた9種的特徴ではありますが…(;^_^A)

 

当時苦しんだのが体癖のせいかどうかは分かりませんが、今振り返ると… 

 

体癖のおかげで、こんなに沢山の経験と気づきを得られたのかな… とも思えます。

 

もうダメだ…という時こそ、ダメじゃない自分に気づけるチャンスなのかもしれませんし、自分が嫌になり責めた時期があるからこそ、自分を受け入れ自分自身と一緒にいる事の大切さが増幅するのかもしれません。

 

これからもまだまだ自分を責める時はあるかもしれませんが、それすらも許してみようと思い始めています。責める自分も責められる自分も…すべては私の中で起こっている有難い人生だと思って。

 

 

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ありがとう!のご縁

 

私は 2013年の春に、今現在セラピーで使用している「NES(ネス)」というエネルギー測定ツール、システムに出会いました。

 

その年の初めまではJRA(日本中央競馬会)のレースに出走する競走馬たちの育成や治療をする牧場で、小さな組織ながらも現場のトップを任されて働いていた変わり種なんですが、

当時はすでに量子力学とか精神世界にどっぷりハマっていつつも、

 

自分自身の限界を突き付けられ、それによって苦しみ、受け入れようにも受け入れがたく、自分自身の内面を見たり見なかったり…、心の奥底と向き合ったり逃げようとしたり…、

を繰り返しながら、結局はどんどん自己嫌悪に陥りながらしんどい毎日を送っていました。

 

ついには耐えられなくなって、20年近くお世話になった競馬の世界と別れる事を決めたのはいいものの…、この先何をすれば良いのか全く分からない状態で5年前の春を迎えようとしていました。

 

本当に当時は何もヤル気がおきず、エネルギーも枯渇しており、何も出来る気がせずに自信喪失中で…

でも「どうにかしないと!」という藁にもすがる思いから、当時読んでいた小林正観さんの本に「ありがとう!」って数万回言ったら奇跡が起こる!って書いてあったので、愚直にそれをやっていたりしたんです。

 

人によっては「おいおい!他にやる事あるだろ!」って話かと思いますが、残念ながら当時の私は本当にそれぐらいしか出来なかったんです。それでもし奇跡が起きるのならやってみようか?…と、そのぐらいしか思いつけないぐらい心が病んでいたのかもしれません。(;^_^A

 

そんな頃に確か… 見るに見かねた妻がなんと

「せっかく時間あるんだから… 修行にでも行ってくれば…、…断食とか…」みたいな事を言ってくれまして…

 

8種体癖が苦行好きなんて事は当時はまだ知らなかったはずなのに、断食とかを勧めてくる妻は、さすがに10種体癖の勘の良さを持っていたんだと思います。

 

早速ネットで調べたら、すぐに広島のお坊さんが開いている断食道場を見つけてしまい…

人生初の断食ながらも、10泊コースで申し込んでしまいました (;^_^A

 

かつては空海も修行したという、人里離れた山あいの小さなお寺での断食生活が始まったのですが、作務や写経、護摩行に滝行などなど…色んな初体験をさせていただきました。

 

和尚様は元会社経営者で、かなり波乱万丈な人生を乗り越えてきた方でしたが、晩年は絶対に坊主になるんだ!という突飛な夢を叶えられた方でもありました。

何となく豪快で、笑顔に優しさと力強さがみなぎっている印象でした。

 

そして私と言えば… 

断食期間中も事あるごとに忘れずに「ありがとう!」「ありがとう!」と続けていたんです。実際のところ一体何回まで唱えたのかは定かではないのですが…

 

断食6~7日目ぐらいに突然和尚様から「今日はお客さんが来るから、その方の話を聞きなさい」みたいな事を言われて待っていたら、

事故によりほとんどの指を切断してしまった彫刻家の方が来られまして、自分の身の上話とか人生訓など色々と語ってくれました。

 

その中で何よりも驚いて、私の心に突き刺さったのは…

その方は事故の後、これまでの我儘な生き方を顧みて改心して、その後出会う人々のために無料で「ありがとう菩薩」というものを不自由な手で一生懸命に掘りながら配って回っていた事でした。

 

そして私もそれを頂きました。

 

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ずっとバカみたいに「ありがとう!」「ありがとう!」と唱えることぐらいしか残った気力で出来る事はなく、ただただバカの一つ覚えのように「ありがとう!」「ありがとう!」って藁にもすがる思いで言い続けていたら…

 

まさかはるばる断食のために訪れた広島の山奥で

私よりもっと大変な経験をしたであろう人から「感謝」の大切さと「ありがとう菩薩」を頂いてしまいました。

 

その時の私は… もうどうにも涙が止められず… 

同じ時期に断食でご一緒させていただいた方達のいぶかし気な目も気にせず、

ただただ むせび泣くことしか出来ませんでした。

 

その時、今でもホントに不思議なんですがはっきり覚えている事があります。

何かとてつもなく大きな存在?にずっと、ず~っと見守られている感覚を感じたんです。

そのとてつもなく大きな存在?は、私の現状が良かろうが悪かろうが、どうであろうが全くお構いなく、ただただ私の事、私という存在を、ずっと見守ってくれているかのようでした。

 

その何かが私に「ありがとう菩薩」を受け取らせるイベントを用意してくれたとしか思えませんでした。

 

もちろん凄く暖かくて、言葉に出来ないくらいの有難さを強烈に感じた事を覚えています。今でも思い出すたびに涙が出てきますし、今これを書いていながら涙が出ています(;^_^A

 

それ以外にも色々と感動的な体験や、シンクロ的な出来事や、不思議なご縁があった10日間でしたが、意外と空腹の方は全然平気なまま無事に最終日を迎える事が出来ました。(実際にはもう死ぬかも…と思ってしまったヤバイ出来事もありましたが…(;^_^A)

 

同時期にご一緒させていただいた方達は短期断食でしたので、最終日には私だけしか道場に残っておらず、おかげで和尚様と色々とお話も出来たし、最後は駅まで送ってくださいました。

 

駅までの送迎の途中、私の今後の事を心配して下さったのか…

知り合いの整体師さんのお店とかわざわざ連れていって下さって…、こういう選択肢もあるんだよ!的な事をおっしゃって下さいました。

 

不思議なご縁でその後、中国の推拿(すいな)という整体について学ぶ事になりましたし、そこで学んだ東洋医学的思想や発想は現在私にとって大きな財産となっています。

 

そしてこの10日間の断食から帰ってきてすぐに「NES(ネス)」と私は出会う事になりました。たかが機械、というか人工的なツール、システムとの出会いという考え方も出来ますが…

 

私にとっては「NES(ネス)」と出会えたことは、何かとてつもなく大きな存在?からのプレゼントだったのでは?と今でも感じています!

 

そしてなんと今日、断食道場「知足庵」の和尚様から Facebook の申請を頂きビックリしました!。

ずっと貴重な体験や、優しいお心遣いに対して、「いつかお礼を言わねば…」と思っていたにも関わらず出来ずにいたのに、まさか和尚様の方から連絡を頂くとは…

そして5年前の、こんな私の事を覚えていて下さったとは…

 

 

和尚様、本当にその節はお世話になりました!

お陰様で今、何とか生きています!

お陰様で一生をかけてでも探求していきたい事を見つけられました!

まだまだ不安や恐れはありますが、

私に出来ることを大切にして、

私の人生に起こる出来事に感謝して、

私自身といつも一緒に居られるように生きていきたいと思っております!

 

 

久しぶりに当時の事を色々と思い出して、今も涙が止まりません。

私は実はめちゃくちゃ泣き上戸なんです…(;^_^A

 

でも… もう一回… 和尚様が3日おきに1回だけ塩分補給のために作ってくださった具無しの味噌汁を食べたいなぁ~!って思い出しました。

あれは私の人生で最高に美味い味噌汁でした!

 

今日という日が突然、私に訪れた事に感謝します <m(__)m>

 

 

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あなたが本当に結婚すべき相手とは!?

 

答えは「自分自身」です!

つまり「自分自身との結婚」となります。

 

私がこの言葉を初めて目にしたのは、バイロン・ケイティの書籍を読んでだったかと思います。(それ以前にも目にしていたような気もしますが覚えていません…)

 

クライアントさんとして来られる方の多くは、男性でも女性でもパートナーについての問題を抱えている方がほとんどです。

仮に自分がそうではないにしても両親の夫婦関係の中にもそういった経験を抱えていない…という人は本当に少ないと思います。

 

人間として生まれてきたからには… 結婚するしないに関わらず、数ある人間関係の中でも万国共通で誰でも逃れられないテーマであり、最大の関心事なんでしょうね。

 

でもケイティはこんな趣旨の事を言っていたかと思います。

 

なぜ人が誰かを求め、誰かと結婚しようとするのかと言うと… 

自分自身との結婚を果たすためだと…

自分自身との結婚という最大の目的さえ果たせれば…

そのうえでパートナーがいるか、いないか? は大きな問題ではないんだと…

 

パートナー、特に夫婦って血の繋がりのない赤の他人同士ではあるんですが…

一番お互いの良い面も、悪い面も見せ合う羽目になり(ボロが出てしまい(;^_^A)

一番自分の中にある大きな「想念」を刺激してきて、

良くも悪くも感情的にさせられて、行動(リアクション)まで支配してしまうパワーを持っているように思わせる存在があなたのパートナーなんだと思います。

 

でも本当はその人がそんなパワーを持っているのではなく、

そう思わせてしまう「想念」に自分自身がパワーを与え続けているのが真実なのですが…

 

だからこそ自分がどういう人間なのか?

どういう「想念」を持っていて、どのくらいそれに執着している存在なのか?

について知らせてくれるありがたい存在なのかもしれません。

 

自分自身を知り、自分自身を受け入れ、愛することが出来るようになるまで…

つまり「自分自身との結婚」が出来るようになるため、あなたの人生に用意された無くてはならない必要なキャストなんだと思います。

 

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「自分自身との結婚」とは、私なりの解釈で言うならば

 

自分自身でいる(在り続ける)という事であり、自分自身から離れないという事であり、自分自身を生きるという事でもあり、自分自身を愛するという事でもあり・・・

 

いくらでも言葉は浮かんできそうですが、この自分自身とは私の解釈で言うならば、

 

今ここに、現実として、無条件で、あるがままに、存在している、「私」の事であります!

 

そしてこれは私の解釈の中では「愛」そのものという事でもあります。

 

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クライアントさんにもこういう話をすることはあるのですが、あるクライアントさんとの会話の中でこの「自分との結婚」の話をしていたらある動画を紹介されました。

 

「先生がおっしゃってるお話はつまり… この動画の内容とおんなじ事なのでしょうか?」と言われて紹介されたんですが…

 

初めてみた動画でしたが、まさにこの事でもあります。

 


The person you really need to marry | Tracy McMillan | TEDxOlympicBlvdWomen

 

最後は何度見てもグッとハートに来ます… いい動画です!(笑)

 

この動画を見て以降、実は私も… 

時々思い出しては忘れないように自分に言い聞かせていたりします (;^_^A

 

「私は決してあなたを一人にはしません!」と…

 

 

 

PS:ちなみにこの動画の女性を見ていて…「体癖」が分かる方いらっしゃるかな?

私はすぐに〇種体癖かな?… と感じましたが…(;^_^A

 

 

 

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想念の森の住人たち

前回の続きを例え話を使ってまとめてみよう!と色々と考えてみましたが…、

結局「海と波」の例え以上に良いものが見つからず…

8種体癖で負けたくない私もここは負けを認めて、断念して…(;^_^A

 

ということで、今日は「想念」について書いてみます。

 

皆さん誰一人例外はなく… 想念というモノを持っています。

 

観念、信念、価値観、思い込み、認識、解釈、呪い、呪縛・・・

なんと呼んでも構いませんが、要はあなた(私)が長年信じている考え(思考)の事です。

 

頭の中(思考の世界)に、こういった「想念の木」がたくさん生えていて、まるで森が出来ているような状態かもしれません。つまり想念の森です!

 

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その森の中には、まだ生まれて間もない小さくてか細い「想念の木」もあれば、

大木、巨木に育ってしまった森の主のような「想念の木」もあるでしょう。

 

そんな大木や巨木に育った「想念の木」には無数の枝(想念)が生い茂っています。

「時間は守らないといけない!」

「身だしなみを整えないとみっともない!」

「あの人はもっと礼儀をわきまえるべきだ!」

「約束をやぶるなんて最低だ!」

 

こういった枝がたくさん生えていられるのは、枝を生い茂らせている太くて立派な幹(想念)の部分があるからです。その幹はもしかしたら

「社会人として ちゃんとしないといけない!」

なんて名前の幹かもしれません。

 

そしてその「社会人として ちゃんとしないといけない!」という太くて立派な幹を支えて滋養しているのは、

「ちゃんとしないと愛されない! 認めてもらえない!」

という根っこ(想念)の部分があるからかもしれません。

 

こういう大木、巨木たちと、これから大木にまで育つかもしれない今はか細いたくさんの木たちが うっそうと生い茂り さながら富士の樹海のようになっているのが私たちの頭の中(思考の世界)なのかもしれません。

 

富士の樹海と同じように、いったん奥地にまで迷い込むとなかなか抜け出せなくなってしまいます。

 

そしていつしか… 想念の森の住人として暮らす羽目になり、外の世界(あるがままの世界)に気づけなくなったり、外の世界の存在すら忘れてしまうのかもしれません。

 

あなた(私)が、ある想念を信じれば信じるほど、その「想念の木」はエネルギーを与えられ太く長く立派なものに育っていきます。

あなた(私)の「信じる」という力(行為)がまさに「想念の木」の水となり肥料となっているんです!

 

あなた(私)はその立派な「想念の木」についつい魅了されてしまい、木の元から離れられなくなってしまいます。

 

森の管理者・責任者たる自覚を忘れて…、その「想念の木」の根元で多くの時間を過ごすようになります。

そしてもし 木を傷つけるような誰かが現れたり、そんな出来事が起こるものなら…感情をあらわにして無自覚に衝動的に突き動かされたり、逆に感情を抑え込みながら動けなくなったりし始めます。

 

いずれにしても多大なストレスを感じている事には変わりありませんが…

 

そうこうしてるうちに その「想念の木」は巨木へと育ち、枝はどこまでも生い茂り、あたり一帯の日の光も遮るようになり、周りの小さな「想念の木」へ注がれるはずのエネルギーまで貪るようになって暴走し始めます。

 

被害にあった「想念の木」の中には、今のあなた(私)の役に立つはずの…、助けてくれるはずの…、必要なはずの…「想念の木」も含まれているかもしれなにのに…

 

あなた(私)が「信じる」ことで、あまりにも大きな力を得たその「想念の木」はいつしか意思を得て あなたにささやき始めるかもしれません。

 

「お前はずっとここに居ていい…、いや!、ここに居た方がいいよ!」

「大丈夫… 私が守ってあげるから!」

「耳をかしちゃだめだよ…、私が一番お前の事を分かっているよ…」

「私とお前は同じ… 私こそがお前なんだから…」

 

気をつけないといけないのは… 世間的にネガティブと思われる「想念の木」だけにこんな事態が発生する訳ではないという事です!

 

一見すると世間的にポジティブと思われる「想念の木」によっても同じことが起こりえます。しかもそちらの方が実は長い目でみて厄介だったりするから要注意!

 

恐ろしや・・・ 想念の森・・・

 

あなたは森の住人になっていませんか?

まるで特定の「想念の木」の守り人のようになっていませんか?

 

自分が 何者か を忘れていませんか?

 

 

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感じるのが怖い②

前回の続きです。

 

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私のセラピーは最終的には自分自身を苦しめる想念から自由になることを目指しているんですが、想念に取り組む前に蓄積した感情的エネルギーを何とかしないといけない場合も多いって話なんです。

 

ある想念によって湧き上がってきた感情を、更に別な想念によって感じさせまいとする現象がよく起きてきます。「私はこんな感情を感じるべきじゃない!感じたい訳じゃない!」みたいな事が起こるんです。

中には向き合うべき感情は感じようとせずに、自分が感じたい感情を与えてくれる他のものに意識が向いてる場合もあるでしょう。

 

でもそれを続けているうちに表現されない感情エネルギーはどんどん大きくなってきて、何かもう得体のしれない恐ろしいモノのような気がしてくるわけです。

 

すると当然、なおさら感じようとしないためのサイクルがグルグルと続きます。

「そんなもん感じてしまったら、自分がどうにかなってしまう・・・」となるわけですが・・・、本当にそうなんでしょうか?

 

これらの想念や感情ってどこで湧き起こっているかと言うと、当然ながら「私」の中で起きています。頭の中で…と感じようが、胸のあたりで…と感じようがこの際どちらでも構いませんが、

 

つまり「私(あなた)」という、なんらかの「場」、「スペース」、「空間」みたいなものの中で湧き起こっています。

シンプルに「心の中」といってもまぁ良いでしょう。

 

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想念と感情、どちらに先に気づきやすいか? というとほとんどの人は感情の方に先に気づくはずです。

 

猛烈に湧き上がってくる怒りを感じるよりも前に

「このあと私は怒りに飲み込まれようとしている…、それは何故?、どんな想念によって私はこれから怒りと同化しようとしているのだろう…?」なんて冷静?な人はそうそういないはずです (;^_^A

 

だから普通は感情に先に気づく訳ですが、これって感情に気づいた時点ではもうすでにその感情は生まれているんです。つまり生まれた後なんです。

 

どこに? 当然 私(あなた)の中に。

 

そしてこの後、湧き上がってきた感情を抑圧して結果的に感情貯金が増えたとしても、火に油を注ぐようにして感情の炎をさかんに燃え上がらせたとしても、

 

いずれもどこで起こっているか? というと当然 私(あなた)の中なんです。

 

「そんなもん感じてしまったら、自分がどうにかなってしまう・・・」と思うのは自由なんですが、もうすでに自分の中で生まれて存在している(存在させている?)何かによって、つまり存在済みの何かによって、自分自身がどうにかなってしまう…なんて事が本当に起こりうるのでしょうか?

 

3種体癖の人たちのように、その感情エネルギーを外に表現できれば、周りは迷惑するとしても本人は発散出来てスッキリしたりします。

 

でも4種体癖の人たちのようにそれが出来ない方が、あまりにも感情貯金を増やしすぎると「これを感じてしまうのは危険だ!やばい!無理!」となってしまって、その感情によってどうにかなってしまいそうに思えてくる訳です。(時に自殺をしてしまうぐらいに…)

 

でも本当にどうにかなってしまうものなんでしょうか?

 

自殺までとはいかなくても似たような経験は私にだってあります。

確かに無意識に、無自覚に、その恐れている感情を避けるように、逃げるように過ごしていた経験があります。

 

でもいくら恐れても、いくら逃げようとしても、それはすでに起きた後であり(存在済み)、しかもそれは自分の中で起きている訳ですから、逃げようにもそもそも不可能なんです。

 

でも人は感じたくない感情を無視したり、抑え込んだり、他の何かに意識を向けたりすることで、何とかなるような気がしているんだと思います。

向き合わないまま上手い事やれば、どうにかやり過ごせるような気がしているのかもしれません。

 

はたしてその努力は本当に自分のためになっているんでしょうか?

その努力にエネルギーを注ぐ必要はあるのでしょうか?

 

たとえどんなに巨大で恐ろし気なモノに思えるぐらいに感情エネルギーが大きくなったとしても、それは必ず私(あなた)の中で起こっており、私(あなた)の中に収まっているんです。

 

それを感じてしまったら自分が壊れてしまう…、耐えられない… と思えたとしても、それは必ず私(あなた)の中で生まれており、私(あなた)の中に収まっていることで存在できています。

 

どんな感情であろうが、自覚に上ったときにはすでに私(あなた)の中に存在しています。すでに受け入れ済みで、生まれた後で自覚に上りそして気づく訳です。

 

自分と言う「場」、別な言い方をするならば自分と言う「器」の中で生まれて、そこで存在しているモノですから「場」や「器」より大きな存在となる事はありえないと思うのです。

 

「でも…押しつぶされそうなぐらい大きな存在として…脅威として…感じるんですが…」という気持ちも十分にわかるのですが、自分と言う「場」や「器」より大きくなることなんてありえないと思うのです。

 

例えば… 自分の「場」や「器」に収まりきらないくらい大きいから、

「どこかもっと大きな「場」がないかしら… 収まらなくなってきたな~」とか、

「最近レンタル感情スペースを借りました!、意外と安かったです…」とか、

「〇〇さんに「場」を借りれたんで、一番感じたくない部分を預けてきました。ラッキー!」なんて事は不可能です。残念ながら。

 

たとえどんなに大きな存在に感じようとも、それが起きて(生まれて)、存在しているのはいつも 自分という「場」や「器」の中であり、それを超えて存在するモノはありません。

 

今も増殖拡大中でこのままだとマズい!と思えてても、いつもそれが起こっているのは自分という「場」や「器」の中です。

 

どんなに大きく思えて、受け止めきれそうになく、耐えられそうにないと思える感情であったとしても、私(あなた)という「場」や「器」はあなたが自覚するよりはるかに超広大なスペースであり、簡単にそのスペースを埋め尽くせるもんじゃあないんです!

 

思考や感情が湧きおこる広大な「スペース」「場」こそが、私(あなた)という存在の本質でもあり、すべてはそこで起こっています。

 

これが 私(あなた)の意識です。

 

広大な宇宙空間で幾千もの星や銀河が誕生し、やがて消滅していきますが、それが起きている空間が傷ついたり壊れたりすることはないように、

私(あなた)という「場」や「器」の中で幾千もの想念や感情が誕生し、大きくなったり小さくなったりしながら消滅したり、消滅しなかったりしますが、それが起きている空間(意識)が傷ついたり壊れたりすることはないんです。

 

もう受け止められない、耐えられそうにない、どうにかなりそうだ… というのは真実ではありません。私(あなた)という「場」や「器」は、どんなものでも受け入れ、受け止め、存在させることができる広大な意識です。

 

真実は、受け止められない…、耐えられそうにない…、どうにかなりそうだ…、という想念が存在しているだけです。

そうやって自分自身を信じ込ませようとする想念によって、自分と言う存在の本質(意識)を忘れてしまうことで恐怖を感じているんです。

 

だからたとえどんなに怖くても、私(あなた)という「場」や「器」で生み出して存在させている想念や感情によって、自分自身の本質である「意識」がどうこうなるなんてことはありえない!

 

 

こういう話は色んな覚者と呼ばれる方たちの話や、色んな本によって伝えられていますが、最近紹介されて読んだ本「もっとも深いところで、すでに受け入れられている」を読んでこれまでとは違う意味で凄く腑に落ちました。

 

もっとも深いところで、すでに受け容れられている―普段の生活の中で根本的に目覚める(覚醒ブックス)

もっとも深いところで、すでに受け容れられている―普段の生活の中で根本的に目覚める(覚醒ブックス)

 

 

作者の方はたぶん私とは体癖が違うせいか (;^_^A

ちょっと読みずらく感じた本でしたが(こういう場合も体癖の影響はありますよ!)

最後のページを読んで「あぁ~このためにこの本を読んだ甲斐があった!」と感動しました。

 

この本の中では「海」と「波」の例えをつかって深~いお話を進めていますが、

捻れ体癖(8種)の私はあえて負けまいとして、別な例えを使って (;^_^A

自分という「場」や「器」や「スペース」、そしてそこでいったい何が起こっているか? 人は何に気づけていないのか? について次回書いてみようと思います。

 

 

gorono-omoikomi.hatenablog.com