愛と愛情 ⑤
こんばんは!
この調子でレアルが取りこぼして、バルサが勝ち進んでくれたら 嬉しいなぁ~って思い込んでいるバルサファンの ゴロー です。
昨日までの続きです。
私的には今 一番大切だと思ってる事 をお話してみます!
(上手くまとめられるか怪しいですが…)
昨日まで、期待や条件のついた「愛情」や、夢や目標を追い求める生き方が私たちに及ぼす問題について書いてきました。
つまり「愛情」とは条件付きのものであり、私たちはそれを「愛」だと思い込み苦しんできた側面や歴史が多々見られると…
ではようやく私の考える「愛」についてですが…
「無条件の愛」とか「あるがままの自分」、よく聞く言葉ですよね。
これらの言葉は確かに素晴らしく聞こえるし心にも響きます。
一つの真理なのかな~って感じてます。
私もそうなりたい、私もそれが欲しい・・・
と思うのも人としては当然かな~と思います。
でもそうは言ってもなかなか、本心からそう思えないし、そういう風に生きられない…で困っていた訳です。
自分が持ってる何かについて些細な事でも気づいてあげたり、
自分が出来る事は些細なことでも認めて褒めてあげて、
「足るを知る」を心がけ、
ありがとうって何万回も唱えてみたり、
アファメーションで自己暗示をかけたり、
あのテクニックを試しては、あのメソッドにも手をだしたり、
あの本が良いと聞けば読みあさり、
あの人は素晴らしいと聞けばセミナー行ったりブログを読んだり・・・・・
全てではありませんが、私も色々とやりました(笑)。でもやっぱり自分が心底変われた!、俺もう大丈夫! と思えない…。
ただし学んだきた事についてはホントに勉強になって良かったな~って思ってます!
その甲斐もあってか今年に入って、ある時からふと色々と繋がりだしました…
「無条件の愛」、つまり愛には条件が付かない! ということになりますよね。
そして条件が付かないとはどういう事かと言うと、そのまんまでOKということかと。
そのまんまとは「あるがまま」と置き換えることが出来ます。
「あるがまま」とは「在る」+「がまま(そのまんま)」=「そのまんま在る」となり
つまり「存在」とか「存在している」という意味です。
だから「愛」とは「無条件」で「在るがまま(存在している)」ということになります。他にも類義語として「いまここ」とか「現実」とかも付け足しても良いかもしれません。
「愛」とは
「無条件」で
「在るがまま」の(存在している)
「いまここ」の
「現実」であり
それこそが「愛」である!
私の解釈ではこういう事になります。
別な言い方をするならば(結局同じなんですが…)
いまここに、無条件で、在るがままに存在している、現実こそが、愛である。
当たり前なんですがこのまま解釈すると、これってこの世の中の全てに当てはまるんですよね…
つまりこの世界とは 「愛」 なんです!
これは別に世界だけにとどまりません。今あなたが頭の中で何かを考えたり、何かを感じているならば、それも「愛」なんです。だってそれが今あなたの頭の中で起こっている現実ならば。
つまり、この世は実は「愛」で出来ていると言ってもいいんじゃないでしょうか?
でも人間の大部分は水で出来ていますよね? とか、
いやいやこの世の物質は素粒子で… とかいう話をしてるんじゃありません。
水だろうが、素粒子だろうが、いまここに現実に存在しているなら「愛」なんです。
もし「愛」って言葉に違和感を感じるならば「ソレ」でも「コレ」でも名前はなんでも構いません。要は「ソレ」で出来ていて「コレ」で出来ているのがこの世なんです。
とりあえず私は「愛」と定義したのでこのまま進めさせて頂きますm(_ _)m
つまり、あなたも、あなたの周りにいる人も、家具も、電化製品も、植物も、動物も、家も、空気も、地球も、宇宙も・・・実はこの世のモノは全て「愛」で出来ているんです。
となると「愛」で出来ている以上、
条件をつけることは理論上不可能になります。
なぜなら愛は無条件だから。
でも人間はそれをやろうとします(無謀にも…)
今あなたは何を見ているでしょうか? 何を聞いているでしょうか?
何に触れていて、何の匂いをかいでいて、何を味わっていますか?
何を考えていて、何を感じているでしょうか?
例えば今目の前にパートナーがいたとします。大好きだった昔の面影はなくなり、性格の欠点しか目に付かなくなり、目の前で平気でオナラをし悪態をつきながらお尻をポリポリしている姿に幻滅してるかもしれません。
多くの人はその「目の前の現実」に対して、「なんであなたは・・・」「あなたがもっと・・・」「だいたいあなたは・・・」などなど色んな思いを持っているかと思います。
そうすると、あなたは「愛」から離れることになります。
つまり…
いまここ に、
在るがまま に 存在 している、
現実 に対して、
条件を付けた 訳です。
つまり無条件なはずの「愛」に、条件を付けたことになります。
つまり「愛」に対してケチを付けたようなもんです。
「現実」に対して喧嘩を売ったことにもなります。
「存在」を否定したことにもなります。
「いまここ」に、もう居たくはない!と駄々をこねているのかもしれません。
あなたがやった事は、パートナーに対して何らかの思いを持っただけなのですが、
パートナーに対して、自分の期待や条件を押し付けた事になります。
(願いが叶うか叶わないかは別として…)
リアルな現実よりも、バーチャルな空想の方にこそ価値があると思っています。
存在している人に、存在したことがない誰かのイメージを重ねています。
あなたが本来居るべき場所から離れ、他人や、過去や、未来に意識が飛んでます。
つまり「愛」から離れている訳です。
その対象(人でも、物でも、出来事でも)に対して持つ思いが強ければ強いほど、長ければ長いほど、あなたは「愛」から遠く離れてしまいます。これは記憶や想像を通して頭の中に沸き起こるイメージ等についても同様のことが起こると言えます。
今ここで話しているのは、目の前の誰かや何かに対して何も考えちゃいけない!とか、
不満や怒りや悲しみなどの感情を持っちゃいけない!と言うことではありません。
確かにその目の前の誰かや何かは、あなたにそう思わせる、そう感じさせる何らかの要因も持っているのでしょう。
でもどれだけそれが正しい主張に思えたとしても、自分は間違っていないと思えたにしても、結果として誰が苦しんでいるかと言うと「あなた」なんです。間違いなくそこには、あなたのストレスがあるはずです。
「いえ、私はもうあきらめているから何ともありません!」という方は分かっていません。ホントにあきらめているなら全く気にもしてないはずなので、そもそも脳裏にも話にも浮かぶはずがないからです。「もうあきらめてます…」って人ほど実は全然あきらめてません!(^_^;)
そしてこの話はあなたの人生の全てについての話ではありません。例えば1日の中で出会った人、すれ違った人含めて全て覚えている訳がありません。今日起こった事全てにあなたが反応した訳ではないでしょう?
つまり、あなたが反応してしまった誰かや、何かについてのお話なんです。
あなたが反応しない、気にもしていない誰かや何かは問題じゃないんです。
あなたが見ている世界というのは、「あなたが反応して気にしている世界である」とも言えます。
どんな人にだって、気になる人や事、そのことを考えるとつい何らかの感覚に捕まってストレスを感じてしまう何かがあるはずです。他のことは全て順調で問題を感じなかったとしても、たった一人気になる人がいたら…、たった一つ気になる事があると…、それにこだわり、執着して、身も心も囚われてしまうのが人間です。
そしてその「たった一つ」によって私たちは、いとも簡単に「愛」から離れていきます。
誰かや何かに対して、何をしても、何を考えても、何を感じても、個人の自由でいっこうに構わないのですが、そこに自分の期待や条件をくっつけたり、夢や目標を追い求めていくと、いつしかそれは執着に変わる危険性を常にはらんでいるんです。(そして人はなかなかそれを認識できないみたいです)
それでもそれをやり続けようとすると必ず「愛」から離れてしまい、結果的に他でもない自分自身が多大なストレスを感じるような仕組みが「この世」には存在しているみたいです。
「何訳のわかんない事を言ってるんだ!、うちの〇〇が愛で出来てる訳ないだろうが!!!」という抗議の声も聞こえてきそうですが、
だったら何がふさわしいですかね?
「悪」でも「魔」でもかまわないのですが…
そうすると必然的にあなたも「悪」とか「魔」とかで出来上がってることになります…
これはいったいどういう事なんでしょうか?
なぜ自分が大嫌いなあの人やあの事に対して、自分が正しいと信じている考え(期待や条件など)を持つ事が、結果として自分自身を一番苦しめることに繋がるのでしょう?
当たり前と言えば当たり前のことしか言ってない話でもあるんですが…
でも…、いまここに、無条件で、在るがままに存在する、現実こそが「愛」であることを理解すると、物凄くシンプルなこの世の法則が見えてくるんです!
私…、これに気づいたとき衝撃でした!
衝撃過ぎて逆に冷静に検証を重ねねば!と思ったぐらい衝撃でした。
この話の続きが次回になってしまうくらいの衝撃でした…