ゴローの「思い込み 」

目には見えない「心と体のつながり」を視覚化して、気づいて、あなたが「思い込み」から自由になるお手伝いをしています。「思い込み」という名の呪縛について私なりの「思い込み」を書き綴ってみるブログです。

感じるのが怖い②

前回の続きです。

 

gorono-omoikomi.hatenablog.com

 

私のセラピーは最終的には自分自身を苦しめる想念から自由になることを目指しているんですが、想念に取り組む前に蓄積した感情的エネルギーを何とかしないといけない場合も多いって話なんです。

 

ある想念によって湧き上がってきた感情を、更に別な想念によって感じさせまいとする現象がよく起きてきます。「私はこんな感情を感じるべきじゃない!感じたい訳じゃない!」みたいな事が起こるんです。

中には向き合うべき感情は感じようとせずに、自分が感じたい感情を与えてくれる他のものに意識が向いてる場合もあるでしょう。

 

でもそれを続けているうちに表現されない感情エネルギーはどんどん大きくなってきて、何かもう得体のしれない恐ろしいモノのような気がしてくるわけです。

 

すると当然、なおさら感じようとしないためのサイクルがグルグルと続きます。

「そんなもん感じてしまったら、自分がどうにかなってしまう・・・」となるわけですが・・・、本当にそうなんでしょうか?

 

これらの想念や感情ってどこで湧き起こっているかと言うと、当然ながら「私」の中で起きています。頭の中で…と感じようが、胸のあたりで…と感じようがこの際どちらでも構いませんが、

 

つまり「私(あなた)」という、なんらかの「場」、「スペース」、「空間」みたいなものの中で湧き起こっています。

シンプルに「心の中」といってもまぁ良いでしょう。

 

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想念と感情、どちらに先に気づきやすいか? というとほとんどの人は感情の方に先に気づくはずです。

 

猛烈に湧き上がってくる怒りを感じるよりも前に

「このあと私は怒りに飲み込まれようとしている…、それは何故?、どんな想念によって私はこれから怒りと同化しようとしているのだろう…?」なんて冷静?な人はそうそういないはずです (;^_^A

 

だから普通は感情に先に気づく訳ですが、これって感情に気づいた時点ではもうすでにその感情は生まれているんです。つまり生まれた後なんです。

 

どこに? 当然 私(あなた)の中に。

 

そしてこの後、湧き上がってきた感情を抑圧して結果的に感情貯金が増えたとしても、火に油を注ぐようにして感情の炎をさかんに燃え上がらせたとしても、

 

いずれもどこで起こっているか? というと当然 私(あなた)の中なんです。

 

「そんなもん感じてしまったら、自分がどうにかなってしまう・・・」と思うのは自由なんですが、もうすでに自分の中で生まれて存在している(存在させている?)何かによって、つまり存在済みの何かによって、自分自身がどうにかなってしまう…なんて事が本当に起こりうるのでしょうか?

 

3種体癖の人たちのように、その感情エネルギーを外に表現できれば、周りは迷惑するとしても本人は発散出来てスッキリしたりします。

 

でも4種体癖の人たちのようにそれが出来ない方が、あまりにも感情貯金を増やしすぎると「これを感じてしまうのは危険だ!やばい!無理!」となってしまって、その感情によってどうにかなってしまいそうに思えてくる訳です。(時に自殺をしてしまうぐらいに…)

 

でも本当にどうにかなってしまうものなんでしょうか?

 

自殺までとはいかなくても似たような経験は私にだってあります。

確かに無意識に、無自覚に、その恐れている感情を避けるように、逃げるように過ごしていた経験があります。

 

でもいくら恐れても、いくら逃げようとしても、それはすでに起きた後であり(存在済み)、しかもそれは自分の中で起きている訳ですから、逃げようにもそもそも不可能なんです。

 

でも人は感じたくない感情を無視したり、抑え込んだり、他の何かに意識を向けたりすることで、何とかなるような気がしているんだと思います。

向き合わないまま上手い事やれば、どうにかやり過ごせるような気がしているのかもしれません。

 

はたしてその努力は本当に自分のためになっているんでしょうか?

その努力にエネルギーを注ぐ必要はあるのでしょうか?

 

たとえどんなに巨大で恐ろし気なモノに思えるぐらいに感情エネルギーが大きくなったとしても、それは必ず私(あなた)の中で起こっており、私(あなた)の中に収まっているんです。

 

それを感じてしまったら自分が壊れてしまう…、耐えられない… と思えたとしても、それは必ず私(あなた)の中で生まれており、私(あなた)の中に収まっていることで存在できています。

 

どんな感情であろうが、自覚に上ったときにはすでに私(あなた)の中に存在しています。すでに受け入れ済みで、生まれた後で自覚に上りそして気づく訳です。

 

自分と言う「場」、別な言い方をするならば自分と言う「器」の中で生まれて、そこで存在しているモノですから「場」や「器」より大きな存在となる事はありえないと思うのです。

 

「でも…押しつぶされそうなぐらい大きな存在として…脅威として…感じるんですが…」という気持ちも十分にわかるのですが、自分と言う「場」や「器」より大きくなることなんてありえないと思うのです。

 

例えば… 自分の「場」や「器」に収まりきらないくらい大きいから、

「どこかもっと大きな「場」がないかしら… 収まらなくなってきたな~」とか、

「最近レンタル感情スペースを借りました!、意外と安かったです…」とか、

「〇〇さんに「場」を借りれたんで、一番感じたくない部分を預けてきました。ラッキー!」なんて事は不可能です。残念ながら。

 

たとえどんなに大きな存在に感じようとも、それが起きて(生まれて)、存在しているのはいつも 自分という「場」や「器」の中であり、それを超えて存在するモノはありません。

 

今も増殖拡大中でこのままだとマズい!と思えてても、いつもそれが起こっているのは自分という「場」や「器」の中です。

 

どんなに大きく思えて、受け止めきれそうになく、耐えられそうにないと思える感情であったとしても、私(あなた)という「場」や「器」はあなたが自覚するよりはるかに超広大なスペースであり、簡単にそのスペースを埋め尽くせるもんじゃあないんです!

 

思考や感情が湧きおこる広大な「スペース」「場」こそが、私(あなた)という存在の本質でもあり、すべてはそこで起こっています。

 

これが 私(あなた)の意識です。

 

広大な宇宙空間で幾千もの星や銀河が誕生し、やがて消滅していきますが、それが起きている空間が傷ついたり壊れたりすることはないように、

私(あなた)という「場」や「器」の中で幾千もの想念や感情が誕生し、大きくなったり小さくなったりしながら消滅したり、消滅しなかったりしますが、それが起きている空間(意識)が傷ついたり壊れたりすることはないんです。

 

もう受け止められない、耐えられそうにない、どうにかなりそうだ… というのは真実ではありません。私(あなた)という「場」や「器」は、どんなものでも受け入れ、受け止め、存在させることができる広大な意識です。

 

真実は、受け止められない…、耐えられそうにない…、どうにかなりそうだ…、という想念が存在しているだけです。

そうやって自分自身を信じ込ませようとする想念によって、自分と言う存在の本質(意識)を忘れてしまうことで恐怖を感じているんです。

 

だからたとえどんなに怖くても、私(あなた)という「場」や「器」で生み出して存在させている想念や感情によって、自分自身の本質である「意識」がどうこうなるなんてことはありえない!

 

 

こういう話は色んな覚者と呼ばれる方たちの話や、色んな本によって伝えられていますが、最近紹介されて読んだ本「もっとも深いところで、すでに受け入れられている」を読んでこれまでとは違う意味で凄く腑に落ちました。

 

もっとも深いところで、すでに受け容れられている―普段の生活の中で根本的に目覚める(覚醒ブックス)

もっとも深いところで、すでに受け容れられている―普段の生活の中で根本的に目覚める(覚醒ブックス)

 

 

作者の方はたぶん私とは体癖が違うせいか (;^_^A

ちょっと読みずらく感じた本でしたが(こういう場合も体癖の影響はありますよ!)

最後のページを読んで「あぁ~このためにこの本を読んだ甲斐があった!」と感動しました。

 

この本の中では「海」と「波」の例えをつかって深~いお話を進めていますが、

捻れ体癖(8種)の私はあえて負けまいとして、別な例えを使って (;^_^A

自分という「場」や「器」や「スペース」、そしてそこでいったい何が起こっているか? 人は何に気づけていないのか? について次回書いてみようと思います。

 

 

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