愛と愛情 ③
こんばんは!
だんだん慣れてはきましたが「はてなブログ」細かいところが何となく使いづらいな~と思い込んでいる ゴロー です。
さて今日も「愛」と「愛情」について、長々と私の 思い込み を語ってみましょう!
私の思う「愛情」とは、「自分のため」であり、「自分のための期待」がそこにあると考えてます。昨日は親子の例を挙げましたが、夫婦関係や恋愛関係、その他様々な場面においても同じような事はいくらでも見つけられると思います。
誰かに愛情を持つ事、そそぐ事は別に問題だとは思いません。ただ、仮に片思いで相手に対して何も望まず自分の大切なものすら犠牲にできたとしても、そうすることで幸せや喜びを感じている「私」は必ずいるわけです。
でも直接的な思いであろうと、上のお話のように間接的な思いであろうと、「そうすることで自分が得られる何か」への期待がどんどん大きくなってくると、自覚のあるなしに関わらず執着が生まれて来ます。
ただ誰かを好きで、それだけで幸せだったはずなのに、相手にも私を好きになって欲しいとか、こんなに思ってるのになんで気づかないのだろう?とか、こんなに苦しいなら忘れさせて欲しいとか、何かを期待し出すとそこに執着が生まれます。
何も望んでないように思っていても、相手と別れた、相手が結婚した、引越した、亡くなった・・・などの理由で会えない、声も聞けない、連絡も取れないとなると、自分が相手に何を期待し執着していたかに気づけたりします。
場合によっては実は相手のことなど何も考えておらず、自分の望みのみを追いかけていた事に気づくケースもあります。
誰かや何かを愛しているとき(愛情を持っているとき)、自分ではそういう「自分のための期待や欲求」を持ってることになかなか気づけないし、無意識にやってるからこそ自分ではなかなか止められないんです。
そして期待や欲求は、「夢」という名前にも変わって強大な力で人を動かします。
夢や目標を持っても もちろん構わないのですが、そこに結果に対する期待が入ると様子がおかしくなります。期待という思い込みが入るまでは、余計な事も考えずただ好きでやっていた事なのに、「結果への期待」という執着が侵入してくると、
色々と考え、策を弄するようになったり、 どうにもならない相手の考えを無意識にコントロールしたい欲望を持つようになったり、 上手く結果を得られた時はつかの間の幸せに包まれても、その結果を維持するためにますます何かをし続けないといけなくなったり、 結果が得られないときは自分や相手を責めたり、もっと頑張らないと!と自分に鞭打ったり・・・・・
色んな面において、私も覚えがあることばっかりなんですが…(笑)
好きな行為そのものが夢や目標であるならば問題ないと思いますが、他者や世間からの注目や評価、報酬や見返りなどを求め始めるとラットレースに巻き込まれ始めます。
もちろん中にはずっと上手くいってる方や、今素晴らしく幸せに見える方もいるでしょうが、私や周囲にそう見えるだけで本人やその関係者は意外と大変な思いをしてたり…というのもあるんじゃないでしょうか?(ホントに隣の芝は・・・です)
まぁ今幸せいっぱいな人は何も心配ないはずですので(笑)、私と似たような方々に向けての話に戻りますが、
幸せを手に入れるために夢や目標を追いかけるというのは、自分自身に「条件」を付けている可能性があるのです。
〇〇になったら幸せ、〇〇じゃなくなったら幸せ、〇〇が手に入ったら幸せ、〇〇がいなくなってくれたら幸せ、もっと〇〇なら、〇〇出来れば・・・・・
その条件をクリアできたら、満たせたら、他者や世間から認めてもらえるし愛してもらえる…と思い込み、
もっと厄介なのはその条件をクリアできたら、満たせたら、自分で自分を認められて、自分で自分を愛する事が出来るはずだと思い込んでいる事です。
裏を返せば、その条件をクリアして満たさないかぎり
「絶対認めてあげないぞ!」、「絶対愛してあげないぞ!」と、自分自身に高額な請求書を突きつけているのと同じです。
私たちは自分自身に対して誰よりも期待して、要求して、執着しているが為に、自分が自分自身に対する誰よりも厳格な裁判官になっている事実になかなか気づけません。
そして条件をクリアして満たせる間は、認めて、愛してあげれたとしても、
ひとたび条件を満たせない自分、請求書を払えない自分になってしまうと、
自分自身に対して怒り、悲しみ、失望し、期待に答えられなかった自分をまるで「裏切り者」のように扱う事にさえなります。
当たり前にやっていた夢や目標を持って頑張る生き方、他者のそして自分の期待に応えるために生きていく事の背後に、こういう危険性や弊害も隠れていることに気づかず、無自覚に苦しんでいる方も多いと思います。
では、条件をクリアし続け、満たし続ければ問題ないのでは?
ずっと頑張って努力し続ければ、幸せにもなれるのでは?
自分にあえて高いレベルの要求をして、それをクリアすることに喜びを感じる生き様。
まぁそれもありだと思いますし、そこまでして頑張りたい人がどれだけいるかは知りませんが、そうやって「いわゆる成功した方」、「走り続ける方(られる方)」も沢山いるかと思います。
特に戦後の日本が栄えたのは(今の日本があるのは)、そういった過酷なハードルに耐えて頑張ってきた私たちの親世代などの努力と辛抱のおかげかもしれません。
でもどうやらこの世界の仕組みを知れば知るほど、人として「それ」はやらない方がいいのかな?と思うんです。今まさにその歪が問題となってきた時代に突入しています。
自分のための期待と条件の付いた夢や目標、そして自分のための期待と条件の付いた愛情 のせいで、私たちは「愛」からはなれ本当の「自分」を見失っていると感じてます。
これまで私なりに考える「愛情」について語ってきましたが、
じゃあ「愛」ってなんなんだ? 「愛情」とどう違うんだ?
について「愛の定義」や「人間としての在り方」などなど偉そうに
私の思い(思い込み)をまだまだ語ってみます。m(_ _)m