ゴローの「思い込み 」

目には見えない「心と体のつながり」を視覚化して、気づいて、あなたが「思い込み」から自由になるお手伝いをしています。「思い込み」という名の呪縛について私なりの「思い込み」を書き綴ってみるブログです。

愛と愛情 ⑥

こんばんは!

 

人間って「ある意味みんな憑依されてるよな~」という思い込みを強くしつつある ゴロー です。 

 

 

いつまで続くか自分でも分からなくなってきましたが、いつか目に止まって読んで下さる方を期待して、今日も続きを書いてみます。

 

 

私の考える「愛」についての定義とは、

 

いまここに、無条件で、在るがままに存在している、現実こそが、「愛」である。

 

となると、

 

この世に存在する全ては「愛」であり、「愛」で出来ている。

 

だからこそ、

 

特定の誰かや(自分や)何かに対して考えてる思い込みが、いくら正しかろうが、絶対に間違っていないと信じようが、あなたがそれでストレスを感じているならば、あなたはすでに「愛」から離れており、あなた自身が苦しむ事になります。

 

ということを前回まで書きました。

 

つまり私たちは「愛」であり、あなたの気になるあの人もあの事も実は「愛」であり、今目の前にあるパソコンもスマホも「愛」であり、今いる場所もさっきまでいた場所も「愛」であり、アレだってコレだって「愛」であり、つまりこの世の中には「愛」しか存在しておらず、「愛」だけで出来上がっている事になります。

 

だから… 誰かや自分を「愛する」とか、誰かや自分から「愛される」なんてことは起こりえないし不可能なんです。

 

みんな「愛」なんですから!

 

すでに「愛」なのに「愛」を「する」とか「される」とか無理なんです。

 

唯一、私たちに出来るのはただ「愛」で在ることだけです!(忘れてしまっていますが…)

 

多くの人が「愛」を求めて彷徨っていますが、手にいれる事は不可能ですし、手に入れる必要もないし、手に入らないと嘆く事もないんです。

 

だってすでに「それ(愛)」で在るわけですから。

 

 

これ例えば「愛」「バナナ」に置き換えると…

 

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「私(バナナ)はあなた(バナナ)にただ、バナナして欲しかっただけなの!」

「ごめんよ! 僕(バナナ)が間違っていた」

「僕(バナナ)が本当にバナナしているのは君(バナナ)だけなんだ!」

バナナしてるわ!」「僕(バナナ)もだよ!」

 

という、「バナナ」されたい「バナナ」が、「バナナ」したい「バナナ」「バナナ」について語り合っている図式になります。

 

こんな バナナ話 が日常的に起きている事になります。

 

 

古今東西の色んな聖者や覚者の方々が言っていた事は本当だったんです!

 

「愛」はずっとあったんです。

無くなったことなど歴史上一度たりともないんです。

 

いつでもどこでも「愛」はそこに在り、むしろ「愛」しか存在していないんです。

 

だたら、探しても探しても見つからない訳です。

 

「愛」しかないのに、別な何かを「愛」だと思い込んで探している訳ですから。

 

「愛」を手に入れるために、何かをしたりしなかったり、何かを手に入れたり入れなかったり、頑張ったり諦めたり・・・する必要などないんです。

 

ずっとあなたと共に… というか あなたがずっと「愛」だから…

 

マザーテレサ「愛の反対は無関心」という有名なフレーズがありますが、ほんと上手いこと言ったもんです。

 

「愛」とは在るがままなんです、つまり存在なんです。

 

存在しているものに対して、まるで存在していないかのように振舞うこと、

つまり「無関心」とは… 確かに「愛」の対局であると言えると思います。

 

 

なのに私たちは気づかずにひたすら彷徨い続けます。

 

例えば次は「愛」「痛み」に置き換えてみますと…

 

「私(痛み)の事を本当に痛くしてると思ってるのなら、ちゃんと痛みを感じさせてよ!」

「こんなにしてあげてるのに君(痛み)はまだ痛みを求めるのか!?」

「これ以上どう痛くすればいいんだよ!?」

痛くされたことなんて一度もないわ!」

「あなた(痛み)が本当に痛くしてるのはお母さん(痛み)の方でしょ!」

「息子(痛み)が親(痛み)痛くするのは当然だろう!」

「もういいわ! あなた(痛み)痛みを求めた私(痛み)が馬鹿だったわ!」

 

という 本当に痛い物語 が展開されていることになります。

 

 

繰り返しますがこの世の全ては「愛」であり、それしか存在していないんです。

 

まさに今、この瞬間の、あなたの周りを見回して下さい。

 

何が見えますか? 何が聞こえますか?

 

見えるもの、聞こえるもの、臭ってくるもの、味わっているもの、触れているもの、

 

考えていること、感じていること、

 

例え誰であっても、何であっても、自分自身であったとしても… それが

 

どんなに正しかろうが、間違っていると思えようが…

 

どんなに好きであろうが、嫌いだと思っていようが…

 

どんなに必要であろうが、いらないと思えようが…

 

どんなに優れていようが、劣っていると思えようが…

 

どんなに愛おしかろうが、憎らしいと思えようが…

 

それはいまここに

 

無条件で(条件をつけようもなく)

 

在るがままに存在している

 

現実であり

 

「愛」なんです!

 

だから「愛」にいくらいちゃもんをつけても、無視をしても、

結果として苦しむのは「あなた」になるんです。

 

でも… だって… という気持ちは凄くわかります。

私も同じ気持ちになるからです。

 

どうしても納得いかない、許せない、受け入れられない、愛せない、無視したい

 

誰かや何か、そして自分自身がいたりしますよね?

 

 

ではどうして人間は どうしても気になる「誰か」や「何か」、

そしてなにより「自分自身」に対して、

 

「愛」でいられなくなるのでしょうか?

 

「愛」であるはずの「自分」が、「愛」であるはずの「誰かや、何かや、自分自身」に対して意義を唱え、不満を持ち、ストレスに苦しみ、時に争いを仕掛け、時に命すら奪うような事態が生まれてくるのでしょうか?

 

そこに「期待や条件」を付けてしまってるから…、

自分の為の期待を押し付け、条件を突きつけてしまっているから…

執着が生まれてしまったから…、

 

とこれまで散々述べてきましたが、次回はもっと具体的に(まだ続きます…)

 

 

私たちが知らず知らずに、こういう「おかしな状態」になってしまう仕組み、

 

私たち人間がこれまで何をやってきたのかについて、

 

「バナナ」と「痛み」を例に使って説明したいと思います。(…嘘です)