決定権は誰が持つ?
gorono-omoikomi.hatenablog.com
凄い人になりたい!
凄い事ができるようになりたい!
誰でも一度は考えた事がある願望かもしれません。(当然私も…)
凄くなるための プロセス自体を楽しんでいるのなら 問題はないのでしょうが、
「凄くなった自分」という結果に期待して、執着しだすとそこに苦しみが生まれてきます。
凄くなれない自分が、許せない存在に変わって来ているのに気づいたら 立ち止まってみる時なのかもしれません。
- 大体そんなときは既にプロセスを楽しめなくなっているはずです。
- ちゃんとモヤモヤ、ザワザワとする事(サイン)が日常で起きているはずです。
- 凄い人が実物以上に凄く感じられるようになってたり、なぜか周りが凄い人だらけに感じたりするようになっているはずです。
そもそもどうして凄くなろうと思ったのか? 例えば・・・
- 凄いという賞賛を浴びるための「凄さ」が欲しかったのか?
- その凄い何かで目的を達成するための「凄さ」が欲しかったのか?
いずれにしても最終的には自分の為にその「凄さ」を求めているんですが…
賞賛を浴びて自信をつけたいための「凄さ」に執着しているときは、
他者との比較が生まれやすく、努力して、または運良く?凄くなれたらなれたで
「やっぱり自分の作戦は間違っていなかった!」
「だとしたら追いつかれないようにこの凄さを維持しなければ…」
「もしかして、もっと凄くなればもっと評価されるかも…」
と終わらない旅路に突入していくことになります。
また、何らかの目的を達成したいがための「凄さ」を求めた場合でも同じ罠にはハマりやすいのですが…
現実問題としてその「凄さ」が目的達成のために本当に必要なのか?とか、
今持っているものや、他の何かでもその目的は達成できないのか?とかの、
別の視点を持てたりすると変な罠に陥らずに自分を取り戻しやすいかもしれません。
そもそも誰かが誰かを凄い!と思うのは、その誰かさんの領域の問題であり他人がコントロールはできません。決定権、権限はその人にあります。
いくら頑張って結果出しても凄いと思ってくれない人はいますし、
たいして努力した事ないのに、凄いね!って言ってくれる人もいます。
そして自分の事を凄いと思うのは、他人ではなく自分の領域の問題であり、その決定権、権限は自分しか持っていません。
残念ながら、だれもあなたの「私って凄いわ!と信じてしまうボタン」を押してあげる事は出来ないのです。
あれば私が押してもらいたいし、私も是非押してあげたいです…(^_^;)
いくら他人が凄いよ!と褒めてくれても、
「イヤイヤ私なんてまだまだですよ、やめてください…」なんて受け取らないのは本人の責任であり決定です。
だから自分が凄いのか? 凄くないのか? なんて問題はどこまでいっても自分の責任で自分しだいなんですが、
人はついウッカリすると、他人にその責任をとってもらおうとします。他人にはそれが出来ると信じているんです。
「私は自分に全然自信がないんだけれども、あなたには私を凄い!って思って欲しいの!」
「私が自信を持てるかどうかは、あなたにかかっているのよ!」
「だからさぁ早く! 私を認めて! 凄いと言って!」
「あなた自身の考えなんて置いてていいから、私のために私が望む言葉を言って!」
少し大げさに表現しましたが、こういった事が実際に多くの方の日常で起こっているんだと思います。
私はバイロン・ケイティという方の「ザ・ワーク」というメソッドに出会ってから、こういう人間の内面で起こっている思考の混乱を腑に落とすことができました。
凄くなれたら認めてもらえるとか、凄くなれたらきっと自信が持てるだろう、という「思い込み」を信じて生きている間は実は絶対に幸せになれないことを…
あなたは・・・
「凄くなれない私なんて、私は絶対に認めてあげない!」
「だからさぁ、もっと頑張って! 凄くなるまで頑張って!」
なんて… 自分自身にムチを打ち続けたいのでしょうか?
そもそも本来の目的ってなんだったのでしょう?
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