愛と愛情 ⑦
こんばんは!
なんとかこのシリーズ(愛と愛情)を無事書き終えたら、2日に1記事ペースにしたいな~という思いを強くしている ゴロー です。
7回目に突入してきました…、愛と愛情についての私の思い込み。
では今日も思うがままに書き綴ってみようと思います。
愛 は 無条件 だから、条件をつけられません。だから
善も愛だけど、悪も実は愛なんです。
正しいのも愛だけど、間違ってるのも実は愛なんです。
平和も愛だけど戦争も実は愛なんです。
つまり…愛は当然ながら愛なんだけど、愛じゃないように思えるものも実は愛になるんです。
愛 は 在るがまま に 存在 しているものだから、否定はできないのです
世の中には善も存在してますが、悪だって存在しています。
正しい事も存在してますが、間違った事だって存在しています。
平和も存在してますが、戦争だってずっと存在しています。
つまり…愛も存在させてるけど、そうじゃないと思えるものも存在させているのが愛なんです。
(全部愛だから当たり前ですが…)
愛 は いまここの現実 だから、どうやっても覆せません
善だろうが悪だろうが、
正しかろうが間違っていようが、
平和だろうが戦争だろうが、
いま起きてしまってるものを無い事にしたり、やり直す事はできません。
つまり…愛がある現実も、愛がないように思える現実も、愛はいまここに在ることを許しています。
あなたがいくら、自分自身や
親や、パートナーや、子供や、
上司や、部下や、友人や、同僚や、
仕事や、プライベートや、食事や、ファションや、
政治や、経済や、宗教や、戦争などについて
不服に感じて、異議申し立てをして、戦ったとしても…
勝ち目はないんです。
勝ったように感じたり、そう信じ込んだり、
信じたまんま死んでいく事はできるかもしれませんが、
結果として…、本質的には…、あなたは必ず負けてます…(これは本当です!)。
あなたが「勝った!」とか「克服した!」とか信じているとき、実は思いもしない側面であなたは負けてますし、大きな視点から見たら全く克服できていなかったりします。
なぜなら相手は「愛」であり「愛」はある意味最強だからです。
誤解をして欲しくないのは、
だから何も考えるな!とか、
無駄だから諦めろ!とか言ってる訳ではないということです。
思うのは自由ですし、考えるなと言っても不可能です。
ただ… いま現実として、そうである(存在している)、誰かや何かに対して
それが「現実であっちゃいけない」とか「存在してはならない」と
条件を突きつける事は無理ですよ!という事なんです
(そう考えることは出来ますが…)。
でも人間はそれが可能だと思っているようです(私がそうでした!)。
「こんな事が起きるべきではない!」とか
「なぜ私がこんな目に…、納得できない!」とか
「〇〇はあんなことはすべきじゃなかった!」とか言って
「そう在るべきじゃない、すべきじゃない」と否定や拒否をして
「こう在るべき、すべき」という期待や条件付けに執着します。
あたかもそう思えば、そう信じ込めば、
何とかなると思い込んでいるかのように…
でもこれは全て、ただの考えに過ぎません。
どれだけ最もな理由があろうが、周囲の同情を集める証拠があろうが
現実(愛)に対する、存在(愛)に対するただの思考に過ぎません。
思考である以上、そう思う(考える)ことしか出来ません。
そう思った(考えた)事を信じることしか出来ません。
つまり「思い込む」ことしか出来ません。
そしてその「思い込み」に従って行動し、生きていく事になります。
現実に存在している「愛」を否定して、頭(思考)の中にしかない「自分の考え」こそ本当だと思い込んで人生を送ることになります。
でも結局それは思い込みであり、リアルな現実ではないですし、リアルな存在ではありません。つまり「愛」ではありません。
本当に無条件で存在している現実(愛)を
ちゃんと見ずに、聞かずに、感じずに、
あなたの頭(思考)の中の幻想(思い込み)の方こそ真実だと勘違いしているのです。
つまり愛の反対である、無関心な状態になっているんです。
私たちに本当に起こっている真実とはなんでしょうか?
私たちは実は、特定の現実(過去・現在・未来を含む)のせいで苦しんでいる訳ではありません。
特定の存在(誰か・何か・自分自身)のせいで苦しんでいる訳ではありません。
私たちが苦しむ本当の原因は、
それらに対する考え、それらに対する思い込みを信じて
それに執着しているがためです。
現実(愛)や存在(愛)に、良いも悪いもないんです。
正しいも間違っているもないんです。
好きも嫌いも、必要も不必要も、勝ちも負けも、愛おしいも憎らしいもないんです。
それがあるのは思考の世界だけです。
ただ、そう思わせる考え、思い込みがあるだけなんです。
だから本当に取り組むべきは、自分の思考なんです。
誰かや何かを変えようとする必要はないんです。
本当に向かい合って、何とかすべきは、自分の考えなんです。
なんとかすべき誰かも何かも本当は存在していません。
世の中に変える必要がある何かがあるとすれば、自分の思い込みなんです。
思い込みとはつまり
想念、観念、ビリーフ(信念)、解釈、価値観、呪い、自己暗示・・・・・
たちの事です。
それらは言わばプログラムです。
プログラムにそう思い込まされているだけなんです。
そして私たちは思い込みの塊り(集合体)でもあります。
色んな現実や、存在に対応する、様々な思い込みを山のように抱えています。
その根底には最大の思い込みが隠れていたりします。
そういった全てが作っているのが「私」です。
それらの思い込みがもしなかったとしたら、
ただ、目の前の現実(愛)や存在(愛)に対して
「どうするか?、どうしないか?」の選択しかないのでは?
そこには、正しい間違ってるも、好きも嫌いも、必要も不必要も、勝ちも負けも、愛おしいも憎らしいもないはずです。
「でも… だとしたら… それは人間として味気ないんじゃ?」と思いますか?
でも本当に「思い込み」なしで五感で感じるこの世界(愛)の現実(愛)や存在(愛)は
私たちが経験したことがないくらい素晴らしいものなのでは?
プログラムで突き動かされている自分じゃなくて、無条件で在るがままの自分の選択で生きる世界と人生こそが本当に求めていたものでは?
という思い込みを強くしている「私自身」がいまここにいます。