愛と愛情 ②
こんばんは!
でも…最近俺のお腹がだらしないのは、日本酒にハマってるのも原因の一つだよな~って思い込んでいる ゴロー です。
今日も、愛と愛情の違いについて私の 思い込み を書いてみようと思います。
精神世界に興味がある方、心の勉強などされた方には今日の内容は、どこかで聞いた、どこかで読んだ事があるようなお話かと思いますが、
むしろそうではない方の目にも、いつか触れる事も期待して書いてみます。
まず「愛」と「愛情」は違うってことなんですが、昨日も書いたとおり言葉には惑わされないでくださいね。私も最初の頃は「愛」と「恋」の違いって説明をしていた事もあります。ご自分の中の適切な言葉に変換してみると良いかもしれません。
まず「愛情」について・・・
当たり前ですが「愛情」って言葉は「愛」と「情」で出来上がっています。「愛」はいずれ述べるとして「情」とは何か?ってお話から。
「情」と一口に言ってもネットで検索すれば色々と出てくるかと思うんですが、私が言ってる「情」とは「情けは人の為ならず」って有名なことわざが言ってる「情(なさけ)」です。(でも言霊的には・・・とかいう難しい意見は知りません)
ちなみにWikipediaだと、『「情けは人の為だけではなく、いずれ巡り巡って自分に恩恵が返ってくるのだから、誰にでも親切にせよ」という意味である。』・・・だそうです。
つまり「情(なさけ)」は自分の為なんです。
今誰かに(もしくは何かに)「愛情」を注いでいる方は沢山いると思います。
・親の子に対する愛情、子の親に対する愛情、兄弟姉妹間の愛情
・彼(夫)の彼女(妻)に対する愛情、彼女(妻)の彼(夫)に対する愛情
・先生と生徒、上司と部下、師匠と弟子
・飼い主とペット
・所有者と所有物
・仕事をする人とその仕事、モノをつくる人とつくられるモノ
・食べる人と食べられるモノ、見る(聞く)人と見られる(聞かれる)モノ
他にもまだまだ沢山あるかと思いますが、そこには必ず「愛情」を注ぐ側と「愛情」を注がれる側があります(逆転することも相互になることもありますね)。
そして先ほど言ったように「情け」は自分の為だとすると、情の字のつく「愛情」も自分の為なのでは? ということで検証してみます。
例えば分かりやすい代表例で、親が子に注ぐ「愛情」について考えてみます。
①元気でスクスクと育ってくれたら…
②良い子に、優しい子にさえなってくれたら…
③勉強(運動)が出来る子になってくれたら…
④良い学校、良い会社に入ってくれたら…
⑤良い人と結婚してくれたら…
⑥かわいい孫を産んでくれたら…
⑦良い暮らし良い生涯を送ってくれたら…
一般的に、この沢山の「たら…」のために親(人)は頑張ります。生きていきます。
元気になったり、元気じゃなくなったりもします。時にはお金、時間、自分の体、自分の感情、自分の思いまで犠牲にして愛情を注ぎます。(注げない親については今日は触れません)
この沢山の「たら…」の後には、そうなったら「私は幸せだ…」だったり「もう何も言うことはない…」だったり「そのために私は頑張れる…(頑張ってきたのよ…)」だったり「その為にも あなたも頑張りなさい…」だったり「そのために、あなたの為に言ってるのよ…」だったりで、色んな「だったり」が付くかと思います。
で、これら全て親として当然持ちうる「何の問題もない考え」のようですが、これ
全部「自分について」言ってます!
子供に対して、そして子供の成長や人生に対して、「こうであったら嬉しい!」「こうであったら幸せ!」という自分の期待について言ってます。
「子供もきっとそうであるに違いない…」という思い込みの上に成り立ってる自分の期待について言っています。
もちろんやがて子供もそう思い込むようになるかもしれませんが、この時点では子供についての「私(親)」の期待であり、「私(親)」の考えです。
つまり自分の為の期待だったりします。
例えば上の①~⑦は時系列にそって書いたつもりでよくあるケースだと思いますが、最初は「元気にスクスクと…」とか「優しい子にさえ…」だけだったのに、どんどん要求(期待)のレベルは上がっています(笑)
最初は「生まれて来てくれてありがとう!」だったはずなのに…
いつしか「勉強はやったの!?」「テストはどうだったの!?」「隣の誰々ちゃんは〇〇大学に行くそうじゃない!?」となっていき、「お母(父)さんも言いたくて言ってる訳じゃないの!、あなたの為に言ってるのよ!」という常套文句が飛び出し始めます。
もう全く「あなたの為」じゃなくなっています。
自分が安心したい為だったりします。
「あなたが勉強していい学校、いい会社に入って、いいお嫁さんをもらわないと私が安心できないじゃない!?、私の老後が安心出来ないじゃない!?」だったりします。
期待してもいいじゃないか!という声も聞こえてきそうですし、
私もそうだったりもしますが…
でもこの期待がいかに人(親も子も)を苦しめ、「愛」から遠ざけ、人生を過酷なものにする可能性を秘めているかについて分かっている方はまだまだ少ないかと。
例えば①の「元気でスクスクと育ってくれれば…」の場合、もし仮に先天的な障害を持って生まれてきたらどうなんでしょう?
(私がもしそうなったらと仮定して書いてみますね)
そこには「てっきり五体満足で生まれると思っていたのに…」とか「なぜ自分の子がこんな目に…、なぜ私がこんな目に…」などの「自分が、自分の子が、こんな目に遭うなって思ってもいなかった」という思い込みが見え隠れしていそうです。
当然ながらこの後、我が子が不憫で可愛そうだと嘆き悲しむと思うのですが、当の子供は周囲の深刻さとは関係なく「ただ一生懸命に今を生きています」
自分が不憫で可愛そうだとはこれっぽっちも思わずに、ただ与えられた命を生きています。
そしてもし言葉を覚え、自我が芽生える頃までに、私(親)の「在り方」が同じだった場合「自分は不憫で可哀想な人間なんだ…」と思い込む可能性はかなり高くなります。
(場合によってはすでに親が発している何かを感じとるかもしれませんが…)
私(親)がそうでなくても、段々と他者との比較や現状の認識などで同じように思い込む可能性はありますが、幼い子供にとって神にも等しい親の「在り方」がその後の人生や自己肯定感などに一番大きな影響を与えるのではないでしょうか?
つまり「私の思い(親の思い込み)」が子へと伝わっていくのです。
そしてこの親の「なんて我が子は不憫で可愛そうなんだ…」という思い(思い込み)は、実は子供の為ではなかったりします。「何とかしなければ…」と愛情(同情も?)を注ぎ始めると思いますが、それも自分の為だったりします。
不憫で可愛そうって、いったい誰が思ってるかというと「私(親)」なんです。子供は思っていません。
こんな体(健康)ではこの先どうなるんだろうか?…と子供は心配をしていません。でも「私(親)」は心配しています。
なんでこの子がこんな運命に合わなければいけないの神様!って「私(親)」は嘆き悲しんでいますが、子供はそんなことは一切神様に言ってません。
中にはもっと分かりやすく
「なんで私がこんな目に合わなければいけないの!?」
「私の何がいけなかったんだろう…」
「辛くてもう生きていけない…」
って完全に自分の物語になって、自己中心にストレートな親もいるかと思います。
誤解して欲しくないのは、子供に対して「そう思う」事がいけないと言ってる訳ではないということです。親として、人間として、 そう思うな! と言う方が無理があると思います。
だからまずは親として、人間として、湧き上がってくる強烈な感情 のエネルギーを逃げずにうけ止めて欲しいのです。それが悲しみだろうが、怒りだろうが、失望だろうが・・・辛いのは、怖いのは十分に承知しています。
そしてその後で、「ただスクスクと育って欲しかっただけなのに…」とか「なんでこの子がこんな目に…」という自分の期待と違う現実に対する考え(思い込み)を信じて被害者のように生きていくと、
・私はどういう自分になっているだろう?
・私はどういう風に生きるようになるだろう?
・私は世間に対してどう振舞うようになるだろう?
・私は子供に対してどう振舞うように、どう扱うようになるだろう?
について考えてみて欲しいのです。
実際にそうである方や、想像することすら難しい方もいるかと思いますが、もしあなたのその当然だと思ってる 期待 を持たなかったら、あなたはどうなるのでしょう?
もし子供に対して「自分が信じていた期待」を持たなかったら、「それ」を持つことなく子育てをしたとしたら、子供は本当にダメになるんでしょうか?
親の方も本当に不幸になるんでしょうか?
当の子供の方は今、もしくは成長の過程で、本当は親に何を期待しているんでしょう。
・本当ににスクスクと育ちたかったのだろうか?
・本当に良い子に、優しい子になりたいと思っているんだろうか?
・本当に勉強(運動)が出来る子になりたいのだろうか?
・本当に良い学校や良い会社に入りたいのだろうか?(良いって何が良いのだろう)
・本当に良い人と結婚したいのだろうか?(良い人って何が良いのだろう)
・本当に良い暮らしや良い人生を望んでいるのだろうか?(良い生き方って何)
クエスチョンマークの嵐と化してきましたが(笑)、親が愛情だと思って子供にやっていることは、実は子供の為のようでそうではなく、ただ自分の期待であり、自分の思い込みだった・・・てことが頻繁に起こっているのが現状だと思います。
今回は親子についての狭い側面について話しただけですが、
「それ」は親子のみならず色んな関係性のなかで起こっていることでしょう。
上にあげた「愛情を注ぐ側、注がれる側の関係性」の中にも、 ①~⑦の「親の思い」の中にも、そこには多かれ少なかれ必ず「私の期待」があるはずです。
「いやっ! 私はホントに何も期待していない。ただ〇〇が幸せになってくれさえすれば…」とか、「私は〇〇の為だけにやったんです!」とか「私は〇〇が望むとおりにやらせてあげました!」という方もたくさんいるのは知っていますが、じゃあそのやり方で「その〇〇さんが幸せになってくれたら、あなたはどうなりますか?」って聞くと
「私は幸せを感じると思います」ってなると思うんです。
結局どこまでいっても 「私の期待」 がなくなることはありません。
自分の自我(期待)を押し通そうが、相手の自我(期待)に寄り添ったり助けたりしようが、そこには「そうすることによって自分も何かが得られるという期待」があるのではないでしょうか?。「その期待に執着して、それを失うまいとしている」自分がいませんか?
そして、この世界に生まれる多くの期待はその人なりの「幸せ」につながるための 期待 だったはずです。そして期待は「夢」という名前にも変わって多くの人を突き動かす原動力になっていきます。
期待 や 夢 を持つのって素晴らしいことだし、人生に生きる力を与えてくれると信じて私も生きてきました。疑いもなく…
でも最近、どうもそうとは言い切れないぞ!と思うようになってきて、私の世界が引っくりかえりそうなんです。(ちなみに小さなひっくり返りはしょっちゅうですが…)
でも…だいぶ長くなりましたので今日はこの辺で(苦笑)
ここまで読んでくださった方もいるはずだと私は今 期待 しています!
明日は期待や夢を持つことの盲点についての検証と、愛と愛情についての関連性について書いてみる予定です。